Not Doing, but Being
──「する」手前で、私が「いる」こと──
威尼斯赌场_澳门现金网-【app*官网】[IAMAS]では、大学の所在地である岐阜県大垣市と連携し、2025年度よりIAMASアーティスト/リサーチャー?イン?レジデンス事業を開始した。同事業は、国内外の第一線で活躍するアーティストあるいはリサーチャーを招聘し、教職員や、学生、地域の人々と交流しながら作品制作や研究活動を行うことを通じて、IAMASの建学の理念である「科学的知性と芸術的感性の融合」による新しい創造活動を深めることを目的としている。 招聘されたアーティスト/リサーチャーは、一定期間大垣市内に滞在し、地域とも交流しながら、その独自の視点に基づいて作品制作や研究活動を行い、その成果は、メディア表現の普及を図るため、作品展示や公開講座として発表される。
初年度となる今回は、映像作家?キュレーターとして活動するジダーノワ アリーナ氏を迎え、「言葉のない手紙」と題したプロジェクトに取り組んだ。滞在期間中には、研究やフィールドワークに加え、3回にわたるワークショップが開催され、対話やコラージュ制作、身体表現を通して、参加者とともに言葉を介さない他者との対話の可能性を探っていった。そして、滞在の終わりにはその成果発表として、インスタレーションおよびプロジェクトのプロセス展示を実施し、地域との交流で生まれたメディア表現を発表した。
本稿の筆者は、IAMASアーティスト/リサーチャー?イン?レジデンス2025(以下、AIR2025)のワークショップ参加者である。同時に、IAMAS産業文化研究センターのスタッフとして、本事業の立ち上がりにも関わってきた。筆者はこのような立場から、ジダーノワ アリーナ氏がIAMASという場所と向き合い、参加者や関係者と試行錯誤を繰り返しながらインスタレーションが生まれるまでに居合わせた。
「言葉のない手紙」と名付けられたこのプロジェクトは、いかなるものだったのか。ここで、誤解を恐れずに端的にいってしまうならば、AIR2025「言葉のない手紙」は、体を動かしたり、話したり、書いたり、作ったりといった、何かを「する」(Doing)は主たる目的ではなかったのではないか。むしろ、「する」の手前にある、いま、ここに「いる」(Being)を実感するための試みであったと捉えることが、このプロジェクトの全体理解につながるのではないか。本稿では、筆者がAIR2025「言葉のない手紙」をこのように見立てるに至ったプロセスを記述することで、AIR2025の取り組みの報告としたい。なお、以下より、体験記としても読みやすいものとするため、筆者を「私」、ジダーノワ アリーナ氏を「アリーナさん」と記す。
──ワークショップ「言葉のない手紙」
2025年8月6日に威尼斯赌场_澳门现金网-【app*官网】シアターにて、本学の大久保美紀准教授をモデレーターとしてキックオフ企画「Zhdanova Alina上映会」が行われた。ここでは、アリーナさんのこれまでの作品を上映し、この日を皮切りとしてアリーナさんは学内外の人びととの交流を深めていった。そのような経緯を経て行われたのが、ワークショップ「言葉のない手紙」だった。このワークショップのプロセスと、アリーナさんが大垣市で暮らすなかで得た経験を経て構成されたのが、10月31日?11月1日に開催された成果発表展で展開されたインスタレーション《言葉のない手紙》である。
私が参加した全3回のワークショップ「言葉のない手紙」は、その目的を以下のように案内していた。「言葉にならない記憶や感情を、非言語的な表現でかたちにし、作品として生み出していく試みです。忘れてしまったことや、うまく言葉にできないことを出発点に、対話やコラージュ、身体表現などを通して作品をつくりながら、他者と感覚を分かち合う新しい方法を探します」。呼びかけ文の最後には「日々の中でふと浮かぶ断片的な記憶に向き合ってみたり、創作や表現に興味のある方、そして新しい感覚の交流を楽しみたい方に参加してほしい」と記されていた。私は、各回10人前後の参加者とともに、「言葉のない手紙」が指し示すものとは何かを考えながら、ワークショップに参加した。
1日目「忘却をあつめる」(2025年9月5日)は、参加者自身がこれまでに見た「夢」の断片を付箋に書き出し、マッピングすることからはじまった。最近見た夢、忘れられない夢、よく見る夢、風邪をひくと必ず見る夢など、各々のエピソードを発表していった。 続いて参加者同士がペアとなり、自身が覚えている「最も古い記憶」についてインタビューをしあうことを促された。アリーナさんは、参加者たちにこう付け加えた。「最も古い記憶を思い出したうえで、そのなかにある、思い出せないこと、忘れていることを想像してみてください」。私は、おそらく2歳くらいのある日、双子の妹とともにベビーカーに乗っていた出来事を思い出していた。そして、アリーナさんのいう「そのなかにある、思い出せないこと、忘れていること」を想像しようとした。ベビーカーを押すのはおそらく私の母だ。ベビーカーの向かう先には、誰かがいるような気配がする。祖母かもしれないし、父かもしれないし、他の誰かかもしれない。おそらく祖母のような気がするが、もしかしたらこれは、アルバム写真を見た私がパッチワークのように記憶を事後的に作り上げたものなのかもしれない。ただ、「一番小さい頃の記憶はなんですか」と聞かれたときよりも、記憶が瑞々しい体験として迫ってくるような、出来事の手触りのようなものがあった。
私は、ペアになった参加者の記憶も聞いていった。岐阜県で育った彼女は、お風呂場のタイルの模様と、ひとりきりのような寂しい感覚と、団地の子どもたちと中庭で遊んでいた記憶を思い出したといった。時間も場所も喜怒哀楽もごちゃまぜになった記憶であったが、なぜか腑に落ちる感覚があった。こうだったかもしれない、でもわからない。これを思い出したけど、なぜ思い出したのかわからない。記憶をめぐる曖昧な対話は、参加者全員で霧のなかを手探りしながら探検するようだった。この状況の迷子にならないように、参加者同士でサポートをしたくなってくる。「わかりますよ」「それってこんな感じですか」と、記憶の輪郭を参加者同士で確かめていく。まるでそれは、霧の中でロープを張り、手を取り合い声を掛け合いながら、山を登って降りていくようだった。
その後、最も古い記憶のなかにある、思い出せないことや忘れていることを別のかたちへと変換し、言葉にならない感覚をコラージュとして制作することを試みた。私は、コラージュ制作は初めてであったが、アリーナさんが用意した布地や糸や枯れ葉を組み合わせて、あの日の思い出せないことをかたちにしようとした。私にとってそれは、ベビーカーが向かう先を意識することだった。作品完成後は各自の作品について語り、それぞれが抱える忘却のかたちを共有した。私とペアとなって記憶をインタビューしあった彼女の作品は、華やかできらきらとした飾り紐で彩られていた。彼女の言っていたお風呂場のタイルの模様は、インタビューから寂しさの象徴のように感じていたが、コラージュで見るタイルのイメージは、もっと深みのある多面的な経験に満ちているように感じさせた。作品を発表する彼女が、微笑みながら他の参加者たちにその記憶を語っていたのが印象的だった。

参加者同士で最も古い記憶について語り合う

思い出せないことや忘れていることをコラージュとして制作していく
2日目「身体の応答」(2025年9月6日)では、忘れてしまった記憶を「動き」で表し、他者とどのようにして分かち合うことができるのかを探った。 アリーナさんは最初に、まるでストレッチをするようにして、自らの体に触れたり、床や椅子といった身近にあるものに触れることで、身体と空間を感覚的に理解することを促した。私は、彼女の声掛けに応じて、手の指、手のひら、腕、肩に触れながら、自分の身体の輪郭を確かめていった。そして、ワークショップ会場の椅子や絨毯にも触れていった。大理石でできた支柱は冷たくなめらかで、絨毯は埃っぽくて適度な硬さがある。昨日も同じ場所にいたはずだが、ここまでこの空間の物質性を意識したことはなかった。また、自分の身体と空間の接地面に意識を向けることは、日々の暮らしのなかでほとんどないことにも気づかされた。

指先ひとつひとつをほぐすことからスタート

空間を構成する物質に触れていく
自分の身体と、身体が置かれた空間への理解が深まったところで、アリーナさんは参加者たちに、ペアで行う動きのワークショップを行うと言った。最初は、互いの真似をしあったり、ジェスチャーのような動きをしあったりと、どこか慣れ親しんだ感覚のある動きを繰り返していた。しばらくすると、アリーナさんは私たちにこう促した。「相手の動きを見て、ジェスチャーでもなく、応答でもなく、そこから〈自分がどう動きたいか〉に意識を向けながら新たな動きを生み出してみてください」。私は動きを止め、しばらく考え込んでしまった。相手の動きに合わせるのではなく、返事をするのでもなく、ただし、ひとりきりでは決して生まれない自分の動きとはなにか。私はそう問われていると理解した。このペアワークをしているときの感覚は、ワークショップが冠する「言葉のない手紙」を想像するような感覚があった。差し出し人の言葉は記されていないが、宛先は確かにある、そんな行為である。また、1日目の記憶をめぐる曖昧な対話で感じた「霧の中」を再び呼び起こすような感覚もあった。身体感覚を研ぎ澄まさなければ、たちまち「ジェスチャー」や「応答」の身体に戻ってしまう。他者がいることを前提としたうえで、自らの内なる発露としての動きを生み出す。これができたかどうかはわからないが、主体/客体、能動/受動、人間/環境、意識/無意識、といった二項対立の概念のあいだ、というよりむしろ、その外へと焦点を合わせるような時間を過ごした。
最後に、1日目に制作したコラージュ作品をもとに、動きのスコアを作り、ペアになる相手に伝えるワークを行った。私は、ベビーカーに乗っていたあの日の記憶を動きのスコアにして、身体を使って相手に伝えた。彼は、少し不安そうな気持ちと、あたたかい気持ちが伝わってきた、といった。私は、この記憶に感情は想像していなかったので少し驚いたが、彼が「不安」で「あたたかい」と言ってくれたことで、私の記憶の手触りは一層深まったように感じた。そして、彼は「不安」で「あたたかい」私の記憶を眺めるようにして、自らの動きを重ねてくれた。「ジェスチャー」や「応答」でもない彼の動きは、私の過去の記憶を、その「わからなさ」を含めてそのまま認めてくれているようだった。他の参加者からは、「自分も忘れている記憶の横に他者がいる感覚があり、それが不思議と気持ち良い感覚があった」、「自分の無意識下にあることを動きで表現したのに、言葉以上に相手に伝わる感覚があった」、「言葉の伝わらなさを感じてきた身としては、言葉はいらないかも、とも思った」などの感想が交わされた。アリーナさんは、「わからないことを許容することが大切。動きが思う通りに伝わることも大事なことだけれど、受け手が全く別のものとして捉えることに面白さを感じてもらいたい」と述べた。

ペアで行う動きのワークショップを行う

スコアをもとにして動き、ペアになる相手に伝える
ワークショップの最終回である3日目「記憶の変換」(2025年10月2日)では、過去2回のワークショップで行ってきた、思い出した記憶を短い言葉として書き記すことや、言葉を動きに変換し、互いに応答するペアワークを行った。さらに、動きが1分程度残像として記録されるコーディングの処理がなされたカメラの映像をリアルタイムで壁面に映し出し、その記録のあり方を意識したペアワークを行った。この日はこれまでで最も参加者が多かったこともあって、まるでスポーツをしているように活発な動きがあった。リアルタイムで映し出される映像装置があったこともその理由のひとつかもしれない。参加者のあいだでは、「体の動きの語彙力がないことに気付かされた」、「自分の記憶に踏み込まれている感覚があったことで、自分も相手に踏み込もうと思えた」、「相手のことがわかる感覚を得られたとき、相手に呼応するために別の動きをするのではなく、相手と同じ動きをしたくなる気持ちになったことが印象深かった」などの感想が交わされた。この日は、まるで子どもの頃に戻ったかのような無邪気な雰囲気と、おぼろげな記憶を表現しようと試みる真摯な空気が同時に沸き起こるような時間だった。

互いの動きを確かめていく

3日間で感じたことを共有しあう
──インスタレーション《言葉のない手紙》
アリーナさんは、全3回のワークショップ「言葉のない手紙」で得られた経験をインスタレーション《言葉のない手紙》として構成し、成果発表展(10月31日、11月1日開催)として展開した。作品リストは以下である。

インスタレーション《言葉のない手紙》(2025)展示作品について
※成果報告冊子「IAMAS アーティスト/リサーチャー?イン?レジデンス 2025 ジダノーワ アリーナ」(2026)より引用
展示会場であるソフトピアジャパンセンター12階国際情場サロンは、建物が出来た90年代の名残を感じる、どこか懐かしい雰囲気のある応接室である。アリーナさんはこの場所の特性を活かしながら、全体に照明を落とし、来場者がこの場所にゆったりと滞在しながら、音と映像、そして、特殊な加工を施した手紙群を鑑賞できる場所を作り上げた。
ここで最も注目したいのは、「言葉のない手紙」として置かれた、特殊な加工を施した手紙群である。これは、ワークショップの参加者がつくったコラージュ作品のアウトラインを取ったデータを、UVプリンターで出力し、凹凸の陰影を施したものである。薄暗い会場のなかで、白い和紙にクリアとホワイトのUVインクで重ね塗りされた印刷面を見るためには、天井の映像投影の光に手紙をかざすようにして透かし見るか、会場に常設してあるフロアライトに近づける必要がある。それでも全体をはっきりと把握することはできない。最も印刷面の質感を把握することができる手段は、印刷面を指でなぞることである。私は、置かれてある手紙のなかから、自分のコラージュ作品をもとにした手紙を見つけることができた。その「言葉のない手紙」を読もうと試みたとき、同時に意識を向けることになったのは、自らの指先だった。最も身近にありながら、まじまじと目をやることのない自らの身体がいまここにあるということを、手紙を読むという行為をしたときに際立って感じられた。

インスタレーション《言葉のない手紙》(2025)

インスタレーション《言葉のない手紙》(2025)
──私やあなたが「いる」ことを感受する
本稿の冒頭で、AIR2025「言葉のない手紙」は、体を動かしたり、話したり、書いたり、作ったりといった、何かを「する」(Doing)は主たる目的ではなく、いま、ここに「いる」(Being)を実感するための試みであったと捉えるほうが、このプロジェクトの全体理解につながるのではないかと述べた。たしかに、ワークショップでは、体を動かし、参加者と対話し、自らの記憶をスコアに書き起こし、コラージュを制作した。また、アリーナさん自身も、ワークショップではつねに声を掛け、IAMASイノベーション工房をはじめとしたIAMASスタッフたちとも協働しながらインスタレーションを制作した。しかし、それでもなお、私は、このプロジェクトは「する」より手前の「いる」を前景化するプロジェクトであったと捉えている。
プロジェクト「言葉のない手紙」では、参加者も、アリーナさん自身も、自らの身体の存在、そして、他者の身体の存在そのものを確かめる仕草を繰り返し行ってきた。特に、ワークショップでのアリーナさんの声の掛け方は示唆的だった。「相手の動きを見て、ジェスチャーでもなく、応答でもなく、そこから〈自分がどう動きたいか〉に意識を向けながら新たな動きを生み出してみてください」。これは、自らの存在と、他者の存在が「いる」ことの確認を促す声掛けではないだろうか。日常において、人間は自らの存在確認をつねにしているわけではない。自らの存在そのものは当たり前のものであって、そのうえでなにを「する」かが問われるのが、生活というものである。また、他者の存在確認もまた、なにかを「する」必要があるときになされるものであって、ただ他者が「いる」ことのみを確認することは、頻繁になされるものではない。逆に、非常時に安否確認という名の存在確認が至急のこととしてなされることからも、それが日常の営みではないことが理解できるだろう。私や他者の存在そのものは、あまりに当たり前であるがゆえに、普段あらためて確認されることはほとんどない。その意味において、プロジェクト「言葉のない手紙」は、それらを知覚する試みであったといえるだろう。
「する」より手前の「いる」を感受することについて、精神医学者であり、現代の哲学や社会学の時間概念に大きな影響を与えている木村敏の時間概念(1982)を敷衍するならば、現代の私たちに支配的な時間感覚である「ポスト?フェストゥム」(あとの祭り)と「アンテ?フェストゥム」(祭りのまえ)に引き裂かれたダイナミズムを外れるものとしての「イントラ?フェストゥム」(祭りのさなか)が、「いる」の感受の回路となると捉えられるかもしれない。
「ポスト?フェストゥム」は、私たちは明日もまた、今日と変わらない日がくると考える時間感覚である。それは一見すると穏やかなものであるが、何をしても変わることはないといったような、諦め感や抑うつ感をもたらす時間感覚でもある。一方、「アンテ?フェストゥム」は、明日は今日とは全く違う、一発逆転が起きると信じる時間感覚である。これは、「ポスト?フェストゥム」のような諦め感や抑うつ感はないが、その代わりに、過去と未来が隔絶し、予測不能な未来に震えるような時間感覚である。このように、私たちは「ポスト?フェストゥム」と「アンテ?フェストゥム」の時間感覚を振り子のように行ったり来たりをしながら、社会を動かしている。「ポスト?フェストゥム」と「アンテ?フェストゥム」は両極の時間感覚だが、同時に、どちらも何らかの目標状態を未来として想定し、未来との関係のなかで時間を意味づけているという共通の志向をもっている(矢守,2019)。現在のつつがない延長として望む未来も、一発逆転として望む未来も、どちらもなにかを「する」ことによって生まれる未来を思考することに他ならない。さらに、どちらかの極端な状況に拘泥してしまえば、未来に釘付けになるあまりに「する」の手前にある「いる」を感受できない状態になりかねない。
このような「ポスト?フェストゥム」と「アンテ?フェストゥム」のダイナミズムから外れるようにして成り立つもうひとつの時間感覚が「イントラ?フェストゥム」(祭りのさなか)である。「イントラ?フェストゥム」は、「いる」ことそれ自体が代替不能の現実として現れるような時間感覚である。単線的でリニアな時間の流れから切り離された、瞬間としての「いる」を前景化するこの感覚は、ファッションやケアといった日常のふるまいから臨床哲学というひとつの学問領域を立ち上げた鷲田清一における「待つ」の概念(2006)や、認知行動療法における「セルフモニタリング」※1や「マインドフルネス」※2の概念(1994)とも関連づけられる。これらの鍵概念に共通するのは、人間と時間との関係という、哲学の深淵を覗くような側面があると同時に、人間がいまここを生きるという、きわめて現実的かつ日常的なふるまいに作用する視点をもっているということである。ここに、アリーナさんの芸術実践の視点の重なりがあると、私は考えている。
「イントラ?フェストゥム」の時間感覚を仮設的に生み出す試み。これが、プロジェクト「言葉のない手紙」であったのではないか。たしかに、アーティストが行うワークショップは、自らの原初的な身体感覚を研ぎ澄ますような、「イントラ?フェストゥム」的な側面があることはしばしば見られる。一方で、アリーナさんが生み出した「言葉のない手紙」は、過去の記憶を思い出そうとする「ポスト?フェストゥム」的な時間感覚と、来るべき未来の宛先を想像させる「手紙」を生み出す「アンテ?フェストゥム」的な時間感覚の双方をもち、参加者たちはその振り子構造に自覚的に巻き込まれることで、自らの内側に潜む「イントラ?フェストゥム」的な時間感覚に気づくという仕掛けがあるのではないか。
過去を悔やみ未来の糧とするか、ないしは、過去を振り払い新しい未来に賭けるかという、どちらかに偏りながら、なんとかして合目的的に生きようとする私たちにとって、自己と他者の存在そのものをかけがえのない瞬間として知覚することは、当たり前であるがゆえに得難い。「相手の動きを見て、ジェスチャーでもなく、応答でもなく、そこから〈自分がどう動きたいか〉に意識を向けながら新たな動きを生み出してみてください」。アリーナさんのこの問いかけは、過去の誰かに応えようとすることと、未来の誰かに伝えようとすることのあいだに佇み、自分が「いる」ことそれ自体を抱きしめるような瞬間を生み出した。「言葉のない手紙」は、時間感覚の振り子に揺られながら、私やあなたがなにかを「する」手前の、「いる」ことそれ自体を感受する回路を開こうとする、野心的な試みであった。
注釈
※1 自分自身の心や身体の状表(自己呈示、表出行動、身体表出など)を内観し記録し、自己が環境にいかなる影響を受けているか把握すること。認知行動療法の第一歩として行われることが多い。
※2 今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、 評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること。認知行動療法においては、クライアントにマインドフルネスの練習を事前に行うことで、トラウマティックな過去を想起した際に、安心安全な心理的感覚に戻る技法としても用いられる。
参考文献
木村敏. (1982). 時間と自己. 中央公論社.
矢守克也. (2019). 〈待つ〉時間:補論:アクションリサーチの〈時間〉. 災害と共生, 2(2), 1-8.
鷲田清一. (2006). 「待つ」ということ. 角川書店.
Young, J. E., & Klosko, J. S. (1994). Reinventing your life: The breakthrough program to end negative behavior… and feel great again. Penguin.